いまここに、あるもので

わざわざ要らないものを遠くから持ってくることないよね

承認欲求とドロップアウト

  • 承認欲求が強い日本人

「日本人は他人の目を気にしすぎ」という文言は、

あまりにも手垢に塗れている。

 

他人志向という意味で共通するのだが、

私は「日本人は承認欲求が強すぎる人が多い」と感じる。

 

老若男女問わず、だ。

 

私もかなり強かった。

大学だとか彼氏だとか、ある一定の条件を満たしているところじゃないと、

自分の価値が認められないと思っていた。

そういう思考を軽蔑しながらも、逃れられずにいた。

 

美魔女と呼ばれるおばさんたちも承認欲求の塊に見える。

年齢の割に充分綺麗で良い生活をしているのに、

分かりやすい方法で人から褒められないと不安になるのだろう。

 

「人から評価されないと不安でしょうがない」

とはっきり言った知り合いもいる。

彼は仕事の線引きをせずに、頼まれれば何でもやってしまう。

 

普通に見える人でさえ、

承認欲求が凄い人が結構いる。

 

例えば私の母親。

専業主婦しかしていない自分が世間知らずであることを絶対に認めない。

私が自分より経験値や知識が多いことが許せず、

いつも張り合ってくる(笑)。

 

でも同じタイプのおじさんおばさんはかなり多いと思う。

 

  • 他の国との比較

比較対象が少ないのだが、

長く生活したアメリカとラダック(チベット)では

人々から承認欲求をそれほど感じなかった。

 

かなり大雑把な言い方だが、

アメリカ人(というかNYの人々)はとりあえず、

「自分がどうしたいか」しかない。

これは一神教個人主義の国だし納得できる。

 

ラダックは日本と同じくアジアで、

個人主義よりも集団主義(というかコミュニティ主義)だ。

 

しかし、

会社や家庭など帰属する集団のために個人がある日本に比べ、

ラダックでは、

個人のためにコミュニティと宗教が存在しているように感じた。

 

何が違うかといえば、

ラダックでは前提として各個人は承認されている。

社会から、個人から。

 

話はそれるが、ラダックでは、

チベット仏教が持つ、具体的な力をとてもよく感じられた。

 

尼寺に宿泊したとき、

最もウィットに富み思慮深い人に感じられた尼は、

私にこう言った。

チベット仏教は非常にプラクティカル(実際的)だ。」

生きるのに有益で役立つ情報が詰まっている、と。

 

彼女達は非常に活動的で開放的だった。

隔離された修道院で一日中祈ってるわけではない。

 

尼寺は自分たちで、イギリスから来たボランティアたちと

一緒に建てて作った。

畑を耕し玉ねぎやトマトなどの野菜を作る。

小さな尼ちゃん達も鉄棒を使って、

強い陽光の下サングラスをかけて土を掘っている。

近所の人々から寄付のお金や食物をもらうが、

それは一方的ではない。

インドのあらゆる寺院や集いへ出かけ、

聖職者・非聖職者問わず、積極的に関わる。

 

彼女達はコミュニティの中心であり、潤滑油でもあった。

それもごくごく自然にそうした機能を果たしていた。

ラダックのコミュニティそのものが、

非常に有機的(オーガニック)だと感じた。

 

ちなみ私は最後の日に、

その思慮深い彼女に問いかけた。

哲学的で曖昧な問いだ。

 

「定期的に訪れる不安に対処するためにはどうしたらよいのか」

というもの。

「不安が生まれる理由には二つある。

 一つは過去の後悔にとらわれていること。

 もう一つは未来の心配ばかりしていること。

 現在presentに集中することが対処方法になる。

 過去は変えられず、未来のことは分からないから。

 それが、仏教によって私が導いた答えだ。」

と言われた。

 

智慧wisdomが具体的なモノになって目の前に現れたような気がした。

その時のチンクに出会ったシシー・ハンクショーだった。

(トム・ロビンスの「カウガール・ブルース」のヒロイン)

 

  • 承認欲求の異常な強さはどこに起因するのか。

言うまでもなく学校教育の影響だろう。

均質な製品を作る工場のような学校。

マスゲーム、朝礼、制服、修学旅行、運動会。

隅々まで同じであることを躾られる。

 

他人と同じであるように、そして

同じ条件の上で、他人よりよくなるように、

が永らく日本の教育のコンセプトだ。

 

「人と違うことをしろ、でもいい大学のいい学部に行け」

という趣旨の発言を私の父親は平気でしていた。

矛盾することだと気づいていない。

 

戦後教育を受けている私の両親世代も、

承認欲求の塊なのだ。

 

一般的に言えば、

私は今ほぼ完全にドロップアウトしてしまった。

 

貯金もあんまり無いし夫も無いし仕事もパートだし。

完全なないないづくしだ。

でもかなり元気に生きている。

それどころか20歳くらいの頃と同じくらい元気だ。

体力的に疲れることは多いが、精神的に疲れることがほぼない。

 

自分自身も、人間関係も、仕事も、

ある程度コントロール出来ていて、

余裕がある。

 

そして誰かに褒めちぎって欲しいという願望が無い。

たまに褒められることがあって嬉しいが、

自分でいいと思うことを言ったりやったりしているだけだ。

 

教職を辞めてラダックで過ごしている友人もかなり居心地良さそうだ。

コンプレックスとか焦燥感から解放されて、

興味のあることに集中できるのだそうだ。

でもまだ20代の彼女は将来を考えて心配になるらしい。

「先のことは何も分からないけど、いい方向へ向かっていると思う」

としか言えなかった。

でもその通りだと思う。

 

15歳でドロップアウトしている年上の友人は、

いつまで変わらず美しく、

友人と家族、恋人に恵まれ、人生をエンジョイしている。

生命力が強いというか生命力そのものな人だ。

簡単に言えば「何でもアリ」な人なので、

何が起きても平然としている。

トラブルがあるときゃーきゃー騒いではいるが、

傍から見ると楽しそうにしか見えない。

 

ドロップアウトしている人は楽しそうだ。

彼らは色んな意味で忙しいので承認を請う暇が無い。

忙しさの理由は生活が楽ではないということもある。

 

そしてドロップアウトと言ってもたいしたことではない。

完全に資本主義社会から離れて自給自足をするとか、

他人との接触を絶つとかそんなことではない。

ただ、公務員とか会社員として生計を立てるのをやめたというだけのことだ。

日本ではそんなことがドロップアウトになってしまう。

 

どこかで辞めないと一生そのままなのに、

一生誰かに承認を請い続ける。

 

私の両親も含め、多くの団塊世代の人々が不機嫌そうだ。

彼らは承認してくれる相手がいないことに苛立っているように見える。

 

べたべたと甘えてくる老人を見るたびにそう思う。

 

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